卒倒するほどの死、に生きることについて、の徒然

美しい世界だけにいきていたい、とおもうになったのは、実は小学一年生のころ。ちいさな、場所でちいさな、子がちいさく、思うだけ。思うだけで止まったので生きることになった。お父さん。わたしをかわいい、とおもっていたのかな。ある夕暮れの、玄関先の、ことを映画のワンシーンのように記憶する。お母さん、よくわからないことを言う、読んでおしまいなら何の意味もないのよあなたの今日に読んだことや感じたことは生きましたかって。読まないと意味を持たないのにとドアをばたーん、と、する。お兄ちゃんは頭がいい。分度器が机上で宙に舞うのを見たことがありますか?わたしはあります。妹は紺色のランドセル。を他者に何を言われようと背中にぴたり、からい、時には黒のものも、ながい坂道を階段を廊下をぐんぐんぐん、とそれは悠悠と進むのです。そんな子が、今や。椅子を設計するようになりました。とは言え、原点回帰なのでしょうか。私は今も、小学一年生のわたし、とおんなじです。場所はおおきいちいさいところ、になりました。海が見えない町にいます。風は端々まで届くことなく、人々の中に吸い込まれてゆく。背丈はぐんぐん、一方で、腕の直径、特に変化なし。どうしてあなたは太らないの、と母に泣きつかれた日もありましたが、顎にだけつくお肉の塊がいっとうに、うっとうしい。その肉を、愛さないで下さい。肉は血を伴い、すなわち生きていることに値する、純潔でなく清らかさの欠片もない。マシュマロとビスケットが好きで、ぬいぐるみのうさぎが好き。ふしぎちゃんなのねとかほわほわしてるのねとかそのような言葉が浴びたく発しているわけではないですし、挙げろと言うのなら、レバーパテも砂肝も好きだよ。いずみちゃん、かにー!という夢を見た日から、現実界で、その光景が、反復する。ひとたび目を閉じると、三作品ほどの夢をみるようになって、短編映画のようだから、才能が在ればメガホンを、と思うがその頃には忘却の彼方へゆく物語たち。小さな男の子がわたしの肩で眠りに落ちていた。いとしくもあったけれどそれはわたしのうんだ子じゃない、という、ことと、いつか、そう永くさきでないいつか、がやってきてわたしのうむ子が眠りにつくのかなあとおもうとああもう走り出したいと、おもう。走って走って走って走って走って。そのさきに。美しい世界にいきていれるのか?愛したい世界にいきていたい

4:53 pm  •  20 October 2015