まさかジープで来るとは

image

というタイトルの本があって、仕事中、屈んでよくそのタイトルを眺めていた。しかし今のわたしが「まさかジープで来るとは」になるなんて。誰が、予想していた。わたし、想像もしていなかった。

つまりは自転車を買いました。乗れないのに。ええ買いました。

買った場所が自宅から歩けはしないけれど自転車なら行けるっしょ的な距離感だったので買ってそのまま練習がてら帰ることにしました。

 

最初に乗ったのはいつだろう。

 

ああ、小学生のころだ、赤い自転車だ。

赤くて、格好良くて、普通の小学生が乗るような可愛らしいものではなかった。両親がどこかズレていてどこか洒落ていたから乗りにくい赤い自転車になった。

わたしの住んでいた場所は道という道のほとんどが坂道で、自転車が交通手段なんて考えたこともなかった。高校では一応校則で禁じていたらしいがそもそも乗る人がいないからその校則があるって知ったのは東京に来てからだった。

小学生って一輪車同じく、自転車持ってないといけないよねみたいな空気感がふわふわ漂っていて。それで、乗った思い出というのは。

春、三月、おわりを迎えたクラスの、文集を、配りに数人で自転車で一日町内ぐるぐる乗り走り回ったこと。最後、夕間暮れ、ついた子の家はお父さんが歯医者さんでお金持ちで、玄関からエントランス(玄関がふたつあるような)がすごい遠い距離で、今でもなんか漫画とか映画とかみたいにそのシーンが駆け巡る。

 

上京して、寮に入っていた。仲良し五人組が入寮早々にできて、その五人で一週間ごはんの担当を決めて、一年間、月曜日から金曜日までは各担当者の部屋でごはんが待っていた。さみしくなることなんてなかった。ごはんとごにんがいつもいたから。誕生日会もたっくさんしたし、ごはんのあとは映画を観たり縫ったり朝からメロンパン焼いてラジオ体操はいつもわたしは遅れていっていたっけ。

その五人で過ごしたのもたった一年間で、夏に、みんなで近くの、けれど歩いていくには遠すぎる大きな公園へ行くことにした。

わたしは小学生以来自転車に乗っていなかったし、文化も知識もないからすっぽり乗ることができなくなっていた。

五人もいて一人だけだったから四人が代わる代わるわたしを後ろに乗せてくれた。夏の、手前だった、光に反射して葉っぱがゆらゆら、するのを観ていた。自転車でみんなが走っていて、わたしは呑気にカントリーロードとか魔女の宅急便とかを口ずさんで、いっしょに歌ってくれたり、重い、いや、とか言われたり、本当にその行くまでも、楽しかったのだ。自転車乗れなくてそのときは、良かったのかもしれないね。

五年後、偶然にもその公園に何度か訪れることになった。こんなに広かったっけ、とおもいながらパンを食べたりバスケしたり遊具で遊んだりただ歩いたりして、どっちの記憶も夢のようだ。

 

社会人になり、ハワイに一度だけ行った。ハワイ、行くまでは本当に興味がなかったしハワイならば金沢とか沖縄とか国内で充分だとか行きたくないだとか捻くれたことばかり言ってたけれど帰ってきて開口一番「行ってよかった‥」

 

どうして行ってよかったかって。

海に入ったのはきっと五分にも満たない(そもそも水着を持っていかなかったし、入る気もなかったから。)けれど、海は美しかった、夕陽とかいつまでも観れた。日本から連れてきたぬいぐるみと見た。大切な子たちとも見た。

朝日も見た。しゃぼん玉をしながら、おはよう、おはよう、と言い合った。これも美しくて、日本にいる大好きな女の人に電話した。いずみちゃん、どうしたの、みんなと楽しみなさい、と言われたけれど、どうしてもその人とその時に話したかった。話せてよかった。今もずっと、永遠のように大好きな人。

ホテルのテラスで日本から持ってきた本を読んだ。これは一生忘れない読書体験。

それから、自転車に乗った。

美術館を巡るために、大切な子と二人で巡るために。

十年ぶりとかなのに、すこしのふらつきと、ここは日本じゃ坂道じゃない、という異国情緒からか、ちょっと練習したらすいすい行けた。ハワイは、気持ちがよかった。けれど帰り道に迷子になって泣いた。思い通りにいかないとすぐ泣く癖はハワイでも変わらない。

 

それから、冬。

自転車を買いました。乗れないのに。

帰り道でなんとか交通手段として認められるような運転ができるようになった。今じゃほぼ毎日ぐるぐる乗っている。

 

いつも、誰かがいた。

小学生の文集委員のみんなとか、寮の五人とか、ハワイの大切な子とか。

けれど、今は、ひとりだ。

ひとりで交通手段として東京でよく見る光景のひとつだけれど、わたしの自転車に纏わる物語も、チェーンといっしょに、ずっと、ずっと回っている。